那大(現、儋州)

       
   1940年4月に日本海軍海南警備府は、那大に、舞鶴鎮守府第1特別陸戦隊司令部をおき、秋に、本部施設の建設を始めた。
 "1942年2月に、日本軍 那大本部の近くに、趙家園という名の大規模な「慰安所」がつくられた。「慰安婦」とされた女性は  16歳から18歳くらいで、新盈の女性が多かった。他には文昌と台湾の女性がいた。趙家園の女性は、2、3人づつに分けられて  日本軍の軍用車に乗せられ周辺の日本軍駐屯地に「慰問」に行かされた。
 趙家園の経営者は日本人女性だった。一番多いときに、「慰安婦」は45人ほどいた。
 1943年に日本軍は、趙家園の近くに新しい「慰安所」をつくった。李氏の家を増築してつくったので、李家園と呼ばれた。"        (呉連生口述「日軍那大慰安所親睹記」より)
趙家園の跡地には、いま、大勇商場の建物が建てられており、李家園の跡地には、憺州市政府第2招待所の建物が建てられている。
林良材さん(1923年生)
林良材さん 
 「日本軍がきたとき、学生だった。卒業して働いていたとき、逮捕されて、監獄に入れられた。逃げて、海口に行って国民党の抗日部隊に入った。
 那大には‘慰安所’はふたつあって、500メートルくらい離れていた。日本軍が利用する‘慰安所’だった。女性たちは最初は十数名だったが、あとでは数十名になり、さらに多くなった。 遊撃隊に入って山中にいたが、たまに町に出てくることがあったので、知った。
 日本軍には、台湾人がいた。日本軍が通り過ぎるのを待ち伏せして、猟銃で攻撃した。
  逃げてきた台湾人、インド人をなんども助けた。台湾人は18人を助けた。インド人は武器を持っていなかったが、台湾人は銃を持って、投降してきた。日本軍が逃げていったあと、解放した」。
  
  日本軍はしばしば、民家を接収して、軍の建物、「慰安所」などとして使用した。 加来でも日本軍は民家を接収した。
加来派遣隊が司令部として使っていた建物

加来

 
慰安所」跡
 
弥発晨さん(1934年生)
弥発晨さん
  「加来には司令部があっ たから‘慰安所’がつくられた。‘慰安所’の所長は日本人だった。日本軍は勝った 時は司令部に戻って、落花生やバナナ、卵をもって‘慰安所’に来た。
  ‘慰安所’には日本人女性が2人いた。一人の名は‘ランコ’だった。‘ランコ’が朝鮮人かどうかは分からなかった。他の女性は、海口、新盈  などから連れてこられた。女性は8〜12人くらいだった。洗濯婦もいた。
  両側に四つずつ部屋があった。道の裏は「モチ」を作るところ。横はご飯を作るところだった」。
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